落ちることと考えること

どん底にいるとよく考えられる。


強いネガティブな感情の状態だと、勝手に自分の思考が深く巡る。


物事が抽象的にはっきりと捉えられる。


自分は真正面から概念と対峙することになる。


僕は逃げずに、徹底的に考える。傷だらけになって、希死念慮が湧いてきても逃げない。


真正面から見続けることにより、自分の精神はボロボロになってくるけれど、新たな視点や思考が見つかることがあるから逃げない。


そうやって、命の綱渡りをしながらも、これまでの人生、自分の中の常識や既成概念をぶっ壊すことで思考をアップデートして生きてきた。


最初のどん底の時は19~20歳ぐらいの浪人時代だったが、鬱病や毎日の希死念慮を突破できたのは、自分がこれまでの人生で身に付けてしまってきた、或いは社会から身に付けさせられてきた常識をぶっ壊すことができたから。


自分の中にある常識に気付いてぶっ壊せた時は、今振り返ってもこれまでの人生の中での至高の喜びだった。


ちなみに、そこで常識をぶっ壊す手助けになったのが、坂口安吾と落合陽一である。今でも好きな二人。


坂口安吾に関しては、浪人時代の自分がどん底にいる時にたまたま立ち寄った駅の本屋で、背表紙に『堕落論』と書いてあって、あれ自分じゃね、と思ってその場で読んでみたのがきっかけ。


読んでみたら、自分が当時考えていたことや、普段思っていることが書かれているじゃあないか。こいつは俺だ!しかも、自分よりも物事の解像度が高く、且つ的確な言葉で表現していて、立ち読みしながらテンション爆上がりしたことを覚えている。


どん底まで堕ちることで、新たな自分の価値観で強く生きていけるっていう安吾の主張は、状況としてすごく当時の自分には刺さった。


また、時代と共に移り変わっていく街の様子を見て悲観することはなく、そこに生き続ける人々の中に魂は受け継がれているんだよって、いう日本文化私観の内容も私に新たな価値観をもたらしてくれた。


落合陽一に関しては、その時YouTubeにWeekly Ochiai シーズン1の切り抜きのようなものや音声だけになった動画が上がっていて、考えが面白くてハマり、NewsPicksを契約し、当時リアルタイムでやっていたWeekly Ochiai シーズン2まで、シーズン1の最初のエピソードから一気見した。


そこで、近代教育での常識が自分を縛っていると気付けて、ぶっ壊すことができた。


当時の自分のメモを記載しておく。書きぶりが中二病っぽいけど(笑)

❝近代教育とは何なのか。均質化された教育、没個性的なゼネラリスト製造教育。良い大学に入って、良い企業に就職して、家庭を築いて子供を育てて死んでいく。そんな「敷かれたレール」を走っていくことが理想とされてきた。大学受験でそのレールから外れた僕は自分に人生の失格者の烙印を押した。僕の場合ただレールから外れた訳ではない。そのレールで平均・中央値より先を走っていたから質が悪い。つまり、近代教育で客観的にも質の良い部類に入っていたから打ちのめされた衝撃がデカかった。最初から近代教育的に言えば、質の悪い人間であればそこまでの衝撃はなかったかもしれないが。❞




脱線したが、そういうどん底にいる時に自分の価値観がガラッと変わるような思考の転換がある。


そして、このどん底での自分の中の常識破壊を経験してしまったことも関係しているだろうが、鬱病が良くなっても、この先どれだけハッピーな未来が訪れようとも、必ず自分の隣にいつでも「死」を置いておこうと思うようになってしまった。


他にも、坂口安吾の死を恐れず生きることを重視する死生観や、いよいよ死のうと覚悟を決めた時に経験した悟り体験(これはあらためて別の文章で書こうと思う)など色々あると思うが、そういうものが複合的に絡み合った結果、「死」を常に隣に置いておきたい、自分の人生の選択肢にいつでも「死」がある状態で生きていたいと思うようになったのだろう。


そしてもっと言うと、この時期を経たからなのか、鬱病が寛解しても、いつかは自分で自分の命を絶とうという思いがぼんやりと残ってしまっている。自己破滅願望も昔は強く抱いていた時期があった。


太宰治や三島由紀夫、芥川龍之介や川端康成といった文豪たちの作品を読んだり、人生を考えてるからなのか。自分の人生の幕引きは自分でやることで、自身の人生をドラマチックなものに見せたいのか分からないけれど。でも太宰のようにネガティブに駆られて死ぬのではなく、三島のように何か大義のためにという思いはある。


そういえば、この希死念慮をコンテクストをあまり語らずに人に話したことがあったが、中二病なの?って言われた。まあ人からはそう見えるか。




とにかく、新卒会社員時代に再びどん底に落ちる。そこで、「時空の連続性」「一は全、全は一」「諸法無我」が全て繋がった革命があるが、これも別で詳しく書こう。


だが、やはり自分の中での革命的な思考のアップデート、自分の価値観や哲学が根底から変わってしまうような体験を、鬱病の状態で、死を間近で感じているときにしている。




話があっちこっちに行きながら書いてきたが、この文章を通して言いたいことは、深く色んな物事を突き詰めて考えられるって状態は、明らかに自分がハッピーな状態の時期ではない。


鬱病じゃない時は、割と楽観的だと自認しているけれど、この状態の時には、ほとんど考えが浮かんで来ない。


自分の人生全体を考えたら、ハッピーが良いに決まっているけれど、自分の考えをアップデートしたり,革命を起こすには、落ちる方が良いのではないかと思ってしまう。


そしてもっと言うと、ハッピーな状態では、平凡で浅い人生で終わってしまうのではないかという不安がある。何も深いことを考えず、人生という有限な時間をただ表層的に過ごすだけになってしまうのではないかという不安に駆られてしまう。


平凡にハッピーに暮らすより、たとえ不幸になっても思考することで新たな考えや物の見方を会得したい、と思ってしまう節がある。


以下は昔の自分のメモ。俺はこういう人間なんだと改めて自覚する。

❝俺は俺の人生を面白くしてこうぜ。つまり苦しむってことだけど、人生の充足感を味わうには、人生を楽しむにはそれしかねえんだよな。
俺はクソ人間だよ、一般大衆とは馴染めないハグレものだけど、それを自分で受容して生きていくってことが一番自分の心が気持ちいい、爽快でいられる。これは俺がちゃんと生きていくためなんだ。あ〜、考えるだけで楽しくなってきた。これだよな、これだよ。これが俺の人生ってやつだよ。どっかで孤独に野垂れ死ぬかもしれねえが、それでいい。能天気ハッピーより思考してアンハッピーの方が俺は好き。知らぬが仏じゃなく、知って地獄見る方が好き。❞



❝自分の中から何か生み出すには、取っ掛かりが必要。
それが社会に対する怒りや不満だったり、人に対する思いだったりする。平和になると、生まれづらいと思うのは、俺もそうだと思う。
俺は自分が苦しむことで、生まれると思っている。実際、つつがなく順風満帆で幸せな時には何も浮かばない。自分の命を削って何か生み出すのが俺の自分の中での使命,大義であると思っているところがある。❞




どん底にいた時の方が、思考は充実していたと感じる。


そして、自分の好きな文豪たちも、自分の人生そのものを作品にしていた。命を燃やして書いていた。


そういう命を懸けた創作だからこそ、後世に残る作品が生まれたのではないかと思っている。


憧れももちろんあるだろうが、自分の経験としても、自分の命を燃やすから見えることがある,考えられることがある,至れる極地があると思ってしまう。




なんだかとっ散らかってしまった感じがあるが、自分がハッピーな状態と深い思考が両立できるのかはまだ分からない、ってのが現状。仮にトレードオフだとしても、今の自分にどちらか片方捨てるってことはできない。


予想だと、これまで同様、人生を通して自分は波があるのではないかと思う。ハッピーな時はその状態を楽しむけれど、落ちるときはとことん落ちて考える。それを繰り返すのではないかと思う。


どちらも捨てられずグラデーションの中で生きていこうと思ったら、時期によって%が変わるんだと思う、意識せずとも。傾いてきたのを自覚した時から、そこからさらに傾けることは意識的にできそうだが。



さあどうなることやら。